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《おばあちゃんの恋袋 第七十二話》男は辛いよ〜ハニートラップ〜

  • 2015年03月16日  吉井 綾乃  



    めっきり春めいた、と言いたいところだが三寒四温。

    春本番にはまだ、少し時間がかかるようだ。

    先週の14日は土曜日のホワイトデー。週休二日が定着した今は会社や学校は土曜日がお休みのところがほとんどだ。義理チョコ相手にせっかくのお休みは返上しないだろうから、土曜日にお返しが届いたとすれば、それは本命の彼からのプレゼントということだろう。春である。

     

    春は虫も蠢くけれど心もざわつくような気がするのは、おばあちゃんだけかしら?でも、昔からよく『木の芽時には気を付けろ』と言うわ。きっと、春には心を乱す何かがあるのよ。それに、気を付けなければならないことは今も昔もいっぱいあるわ。ありすぎるほどにね。さてさて、今日はその中でも恋の罠、今風に言うとハニートラップのお話よ。

     

    どんなに気を付けろと言われても恋の罠を仕掛けられたら、それを阻止できる人って男でも女でもそうそういないと思うわよ。特に男性はそうじゃないかしらねぇ。

    渡辺さんもそんな男性の一人だったわ。渡辺さんとは、おばあちゃんの年上のお友達、美智子さんが仕掛けた恋の罠の犠牲者なのよね。で、その渡辺さんは、まんまと罠に落ちるほど軽薄でちょっと残念な人かというと、これがまるで違って誠実で真面目な男性なのよ。じゃあ、美智子さんが悪女かというと、これもNOなの。

     

    グラマラスな体型の美智子さん。当然、男性の目は彼女の魅力的な胸やお尻に集中することが多く、本人はとてもそのことを嫌がっていたわ。

    「綾ちゃんはいいわね。胸が小さくて…。人の苦労も知らないで男どもは平気でジロジロ人の胸を見るし、ほんと、いけ好かない。いらないわ、こんなもの。重いし肩は凝るし、何も良いことありゃしない」

    お酒が入りちょっと酔うといつもそう言って嘆いていたものよ。もともとお酒がそんなに強くない美智子さんは泣き上戸でもあったわ。介抱役と聞き役のおばあちゃんは、そんな美智子さんが仕掛けた恋の罠の顛末もしっかり見届けたのよ。

     

    その当時、美智子さんには会社に好きな人がいてお付き合い中。とは言ってもこれが道ならぬ恋、簡単にいえば不倫中よ。でも、美智子さんはお相手に夢中で本気で恋していたわ。おばあちゃんと呑んでいる時は、

    「ねぇ、綾ちゃん。一度、綾ちゃんにも会って欲しいな。すごく素敵な人なのよ」

    彼がいかに博識で、いかに仕事ができ、いかに素敵な男性かをおばあちゃんに力説して

    「彼に会いたいなぁ。会いたいの。ねぇ、綾ちゃん。彼に会いたいのよ」

    と、泣きじゃくるのがいつものパターンになっていたわね。でも、美智子さんがおばあちゃんに会わせたがった彼には一度も会わずじまいだったわ。その代りと言うわけではないけれど渡辺さんとは2度ほどお会いしているの。

     

    渡辺さんはいかにも真面目なサラリーマンという感じが、とても好感が持てたわ。確かに、出世するか否かと問われれば明らかに後者かもしれないとは思ったわよ。でも、プレスのかかったズボンとワイシャツ、地味なビジネスコートに少しくたびれた革靴が渡辺さんの誠実な人柄を表しているようで、見かけの派手さとは違い優しく乙女チックな美智子さんとはお似合いのカップルに見えたわ。少なくとも、道ならぬ恋の無責任な男(会ってはいないので個人的感想よ)に現を抜かしているより、美智子さんのためには良いことだと思えたのよ。

    その時、カウンターに座り大きく重い大嫌いな胸を渡辺さんの右腕に押し付けるようにしている美智子さんを見て、『あれ、美智子さんらしくないなぁ。だいぶ呑んでいるけど、いつものように泣き出すほど酔ってはいないしなぁ。どうしたのだろう』。いつもと違う美智子さんを見て違和感を抱いたのだけれど、何日かしてその謎が解けたわ。

     

    実は、会社で美智子さんと不倫相手の噂が人の口に上るようになり不倫のお相手から『暫らく会うのは止める』と宣言されたらしいの。それで、お相手に見せつけてやりたくて渡辺さんとデートすることにしたのかと思いきや、なんと、『大変だわ。会社で不倫の噂などたったら大好きな彼に傷がつく。彼を守るにはどうしたらいいのだろう?そうだ、誰か他の人と付き合っていることにすれば良いのだわ』と、美智子さんは考えたらしいわ。

    本当に見かけとは違い、恋にも臆病で自分から男性にアプローチできるようなタイプじゃないのよ。美智子さんは。だから、美智子さんが好きな人を守るためとはいえ、大胆にも恋の罠を仕掛けて渡辺さんにモーションをかけていると知ったときは、少なからずショックを受けたわ。それに、渡辺さんがとても良い人だと思えたから、なお罪深い行為だと感じたのね。

     

    「いっそ、渡辺さんと本気でお付き合いすればいいのに。渡辺さん良い人じゃないですか」
    「無理よ、無理。なんでも彼と比べてしまうもの。彼が好きなの。彼じゃなきゃ厭なの」

    と、美智子さんがまた、泣く。

    「彼には奥さんがいるけど、渡辺さんにはいないよ」

    と、ぼそぼそとつぶやくようなおばあちゃんの心からの忠告も虚しく空回りに終わったわ。

    美智子さんの気持ちの中には渡辺さんの『わ』の字もなかったの。不憫なのは渡辺さんよね。2度目に渡辺さんと会った時は既に渡辺さんの瞳の中はハートマーク…。美智子さんの恋の罠に落ちていたわね。

    もともと、美智子さんは素敵で優しい女性よ。普通にしていても渡辺さんが美智子さんに恋するのは何の不思議もないわ。でも、決して実らない種を美味しい実がなると思わせて渡すのはルール違反だわ。とは言え、男と女の恋心にルールは無用なのかしらね。

     

    まったくもって、男は辛いよ、だわねぇ。でもね、女も辛いものなのよ。