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《おばあちゃんの恋袋 第七十六話》ビッチの初恋〜あばずれ天使〜

  • 2015年04月13日  吉井 綾乃  



    四月も半ば。しかし、気温の上、下降が激しくまだ、春爛漫とはいかぬようだ。

    中でも、一日のうちに春の陽射しと雨が一緒に訪れたりするのは困りもの…。気温や気候の変化に衣服も体もなかなかついて行けない。

    そんな春の一日の様に、心に体が、体が心についていけないことは多いものだ。

    自分の気持ちに気付かず体が勝手に反応したり、体が反応して初めて気付いたりと、実に、人間様は難しい。

     

    さてさて、今日は昔々自ら『ビッチ』と名乗っていた女の子のお話よ。

    映画の中の喧嘩のシーンなどで『サノバビッチ(son of a bitch)』というセリフをよく聞くけれど、このビッチは『娼婦の息子』だから、男性への蔑称ね。でも本来はビッチって女性を侮蔑した言葉だから、女性がビッチ呼ばわりされたら怒って当然、切れて良いところよ。

    ところが、その昔おばあちゃんが支配人を務めていたラブホテルの従業員アヤは違ったわ。アヤはビッチと呼ばれることが好きだったし、むしろ誇らしげだったの。自分の勲章の様に思っていたのよ。

    誰もアヤを面と向かってビッチとは呼ばなかったけれど、当のご本人が『私はビッチよ、それが悪い?ビッチ、最高じゃん』というふうね。

     

    『公衆便所・色魔・変態』、これがアヤの陰での評判…。アヤをビッチと呼ばなくとも、アヤの評価はビッチと同等のものだったわ。

    『気持ち良すぎてたまんない』『毎日しないとたまんない』『あれが好き!たまんない』とアヤは毎日の様に嘯いて(もしかしたら本気)いたらしく、支配人のおばあちゃんのところまで悪名は届いていたわ。ご注進に及ぶ他の従業員も半ば呆れるほどの天真爛漫さが救いといえば救いなのだけれど、アヤはそれ以外でも何かと問題の多い子だったわ。

    そう、子供なのよ。アヤは当時まだ二十歳前。実際の年齢より幼く見える童顔がビッチを名乗るのはちょっと微笑ましいわ、と思えるほど可愛らしく、若さではちきれそうだったわねぇ。だけれどアヤは事実、噂通りの女の子だったから微笑ましいとは言えないわよね。それに、アヤは隙さえあれば仕事の手は抜くしサボるし、勤務態度も陰日向だらけの怠け者。

    ところが、太っているというわけじゃないけれど、顔も体もまん丸で、捨てられた子犬のような眼をして笑いかけられるとなんとなく、許してしまうのよね、これが。

     

    ある日の夜、警察からホテルの事務所に一本の電話が入ったこともあったわね。

    「○○アヤさんという人はお宅の従業員でしょうか?」

    「はい、確かに○○アヤはうちの従業員ですが、彼女が何か?」

    「実は、無灯火の自転車に乗っていたので止めたところ、本人の自転車じゃなかったので署まで来てもらいました。一応、厳重注意ということで親御さんに引き取りに来ていただかなくてはいけないのですが親御さんと連絡が取れません。本人が言うにはもし、連絡が取れても親が来ることは絶対にないので勤め先の支配人さんに連絡してほしいということでお電話したのですが、こちらまでご足労いただけますか」

    慌てて、警察まで迎えに行ったわよ。

    アヤはその日は非番。で、外に遊びに出てそして、たまたま鍵のかかっていなかった放置自転車に乗って走り出した途端、お巡りさんに呼び止められたということだったわ。

    悪びれもせずに明るく笑うアヤに

    「笑い事じゃないでしょ。困った子ねぇ」

    と、言って夕飯がまだだというアヤとファミリーレスで向かい合いながら、彼女の問わず語りを聞いていて思ったわ。この子は良い子だって。

    さすがに、おばあちゃんの前ではビッチを誇らなかったけれど『毎日、男の人が側にいないと眠れない』という意味のことは言っていたわ。でも、その時にアヤの口から一緒に語られた幼少期の寂しい記憶と複雑な家庭環境を考え合わせるとアヤは『あばずれ天使』そのもののような気がしたの。アヤ本人も気がついていないだろうし、おばあちゃんのセンチメンタルな想像だとしても彼女の明るい笑顔はピュアで一生懸命頑張っている証だと思えたのよ。

     

    あと、感心するのは、無遅刻・無欠勤だったことね。家にいるより職場の居心地が良かったせいもあるでしょうけれどもね。それと、意外にも煙草が嫌いで吸っていなかったことと料理が上手だったことよ。

    ただし、アヤが男子従業員の何人とも肉体関係を持つのは頭が痛かったわ。なんと言って注意したら良いものか、公然の秘密でも秘密は秘密よ。アヤはおばあちゃんの前では、まるでビッチを自慢したりしなかったから噂話で注意することもできなかったわ。

    仕事を怠けるのを注意するのとはわけが違うでしょう。

    陳腐に、『自分を大事にしなさい』となら言えるけれど彼女には大事にされた記憶がない、と言うことも知っていたしねぇ…。本当にどんなふうに言えば伝わるのかわからなかったのよね。

     

    問題児ながら、無遅刻・無欠勤のアヤが何の連絡もなしに仕事に来なくなったのは、ちょうど春先の今頃の季節だったかしら。

    職種柄、突然に従業員が来なくなることは良くあることなのよ。だからほとんどの場合、『来る者は拒まず去る者は追わず』なのだけれどアヤのことは気になって何度も家に電話を入れたのだけれど応答なしよ。彼女の家まで、出向いてもみたけれど、庭先に前夜の雨が散らした桜の花びらが寂しく落ちているだけで誰にも会えなかったわ。

     

    後から知ったことだけど、アヤは自分の母親の何人目かの恋人と駆け落ちしたのだそうよ。

    父親ほども年上の男性との駆け落ちと聞いて、もしかしたら、それがアヤの初めての恋なのかもしれないと思えて、彼女の複雑な胸の内を思うと何故かとても哀しかったわ。

    アヤの心がその男性を求めたのか、アヤの体がその男性を求めたのかは、おばあちゃんには到底分らないけれど幸せになってほしいと心から思ったものよ。