TOP > イククルコラム > 《おばあちゃんの恋袋 第三十三話》恋は突然 〜あなたは気づく?〜

《おばあちゃんの恋袋 第三十三話》恋は突然 〜あなたは気づく?〜

  • 2014年06月17日  吉井 綾乃  



    『恋は出会いがしらの交通事故の様なもの』誰が言った言葉なのか知らないが、上手いことを言うものである。たしかに何の前触れもなく大きな衝撃に襲われるのは交通事故と同じかもしれない。 そんな衝撃的な出会いを一度は経験したかったものだと思ったりするが・・。そうそうそんな運命的な出会いを経験できる人は多くはないだろうと思うのだが、如何なものだろうか?

    只、長い歳月を重ねていると、その中にはもしかしたらあの時の出会いは恋だったのかもと思い至る様な経験もしているものだ。そして思い出の中で気づく恋心も甘く切ないもの。しみじみと青春は帰り来ぬ、と思う。

     

    昔々のお話。アルバイト姫と異名をとり、アルバイトに勤しむ毎日。その日は朝の早いアルバイトが入っていたのだったかしらね。

    時は春、春眠暁を覚えず。(春に限らず若い時はいくらでも寝ていられたものよ)と大寝坊してしまったの。前の日に乾かさずに寝た髪の毛の寝癖を整える間も惜しんでアパートを飛び出して、駅の階段を駆け上がると、ズルッ。なんと、生まれつきの癖毛に寝癖のダブルパンチで凄いあり様の髪の毛が気になり、手で髪の毛を抑えつけながら急いで階段を登り切ったと思った途端、階段を踏み外してしまったのよ。

    『あっ、落ちる』と思った瞬間、後ろでガシッと受けとめてくれた人がいたの。その当時はうら若き乙女だったおばあちゃん。自分のドジっ子ぶりが恥ずかしくて、顔が赤くなるのが判ったわ。

    『ごめんなさい。有り難うございました』って、振り返ってお礼を言うつもりが、支えてくれていた人があまりにも若く逞しくて素敵な男性だったのでウッと言葉を飲み込んでしまったの。 理由はどうあれ、その素敵な男性に一瞬でも体を預けてしまう形になったわけでしょう? だから、彼に自分の体重も胸の大きさまでも知られてしまったような気持ちになったのだと思うのよ。それで恥ずかしさが倍増してしまったのよね。「大丈夫ですか」、とニッコリ微笑みかけられてますます顔がカーッとほてってしまったわ。

    その揚げ句、お礼を言うつもりが口をついて出た言葉が「すみませんでした」だったかしら・・?間が抜けているわよね。でも、思うのよ。後ろで支えてくれた男性があんなに素敵な人じゃなかったら、あんなにまで赤くならずに済んだのに、って。 それって、随分いい加減な恥ずかしさだわよね。兎にも角にも乙女心は複雑なもの、ということにしておきましょうか。

     

    一連の出来事はアッという間もないぐらい一瞬のことだったの。それにその時は急いで電車に乗らなくてはならない事情もあったから、その日はそれで終わったの。

    スーツ姿が凛々しくて、浅黒い顔にこぼれるような笑顔。本当に絵に描いた様に素敵な人っているものなのねぇ・・。(カッコ()、溜息)おばあちゃんはそれまでに、背景でお星様がきらめいている、みたいな男性をみたことがなかったからなぜか胸がざわついて、顔のほてりがなかなかおさまらなくて困ったわ。

    今思えば、それって、一目惚れと呼ばれているものよね。 でも、そもそも彼はおばあちゃんの好みのタイプとかけ離れていたし、おばあちゃんは一目惚れなどまるで信じていなかったから、それが恋のサインだとは気づけなかったのよ。 それに、その当時は耳年増でへそ曲がりの生意気盛りだったから、そのせいで気づけなかったのかもしれないわね。

    でも、あの素敵な彼にまた会いたいなぁ、会えたら良いのに、とは思っていたから眠い目をこすりながら、彼の通勤時間と思しき時間に合わせて電車に乗ることにしたのよ。

    それでもまだそれが恋のなせる業とは思っていなかったわね。上手くいけば憧れの俳優さんに会えるかもしれない、そんな感覚かしらね。そして実際、階段踏み外し事件の2・3日後に駅のプラットホームで、おばあちゃんのすぐ側に彼を見つけたのよ。『あっ!』。とっても嬉しかったわ。それなのに、お礼も言わずに思わず隠れてしまったのよ。何故かしら? 話しかけることなんて絶対に無理と思ってしまったの。

     

    それからは、駅で何度も彼を見つける事が出来たわよ。そのたびに嬉しい気持ちになったけれど一度も声をかけることは出来なかったわね。朝の通勤電車だから、郊外の駅と言ってもほぼ満員状態で電車が駅に着くのよ。すし詰め状態よね。そんなギュウギュウ密着するような状態で彼と一緒の車両に乗り込むことなんて恥ずかしくて、とても出来るわけがないでしょう。だから一緒の車両に乗り合わせたこともないのよね。そのかわり、電車が駅に停まりドアが開くたびに目がドアの外を探すのよ。彼の姿をみつけようとするのね。何度かそんなことを繰り返して彼が終点の新宿駅までは電車を降りない、ということも判ったわ。まるでストウカーだなんて思わないで頂戴ね。決して、その後に何かを望んでいたというわけではないのですもの。只、彼の姿を見つけるととても嬉しい気持ちになれただけなのよ。

     

    自分の気持ちにも気づけないうちに、おばあちゃんの密かな楽しみはそっと静かに幕が降りてしまったわ。毎日頑張って早起きしているのに、まるで彼の姿を見ることが出来なくなってしまったのよ。なんどか時間をずらしたり、駅で何本もの電車を見送ったりといろいろやってみたけど無駄だったわ。仕事場が替わったのか、住む場所が変わったのか知る由もないのだけれど・・。またまた、タラレバだけれどあの時にきちんとお礼が言えていれば素敵な出会いに気づいていたかも、と思うのよ。