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《おばあちゃんの恋袋 第四十九話》嘘 〜好きだから〜

  • 2014年10月06日  吉井 綾乃  



    庭から金木犀の強く甘い香りが漂う。小さくオレンジ色の花が一斉に開いた。金木犀の甘い香りはいつもと同じ、それなのにぜかしら毎年、切ない思いで胸が満ちる。どうやら、あの甘い香りには琴線に触れる力があるようだ。

    秋は良い。胃袋が欲張りになるのはもちろんだが五感が欲張りになる。ならば心の命じるままに大いに秋を楽しむこととしよう。

    ただ、人恋しい恋ごころはお若い人たちにお任せするべきだろうかと、思う。

     

    今は昔。直ぐなる心ゆがめし男ありき。

    今日は直ぐなる心の持ち主が主人公よ。名前は治次。

    (その当時27・8歳ぐらいだったのかしら)演劇青年の治次さんが直ぐなる心の持ち主。治次さんは誠実で正直な男性。そんな人が嘘をつく・・。どんなに正直者でも嘘をついてしまう時ってあるものなのねぇ。

     

    演劇青年の治次さんは、当時アルバイトの掛け持ち数では誰にも負けないと自負していたおばあちゃんが舌を巻くほどのアルバイトをこなしていたわ。彼にはそうしなければならない事情もあったのよね。

     

    沖縄出身の彼はその当時、演劇界を席巻していたアングラ演劇の劇団員。

    アングラ演劇といえば、寺山修司氏の天井桟敷・唐十郎氏の状況劇場(赤テント)などが有名よね。でも、彼はそんな名前の知られた劇団に所属していたわけではなく、名もない(失礼)小劇団の幹部構成員だったの。

    あの当時は、星の数ほどの劇団があったような気がするわ。だから、東京の空の下で毎日どこかの劇団が公演中だったと思うわよ。治次さんの劇団もそんな数多い星の中の一つだったのだと思うわ。しかも、治次さんは劇団の旗揚げの時から参加している劇団の幹部。下っ端の劇団員でも公演チケットをさばくのに四苦八苦するって聞いたことがあったけれど、小さな名もない劇団の幹部さんということは・・。さぞや劇団の運営は経済的に大変だったのだろうと思うわ。アルバイトで得たお金も劇団の運営費に充てていたのじゃないかしらね。

     

    おばあちゃんが治次さんと初めて会ったのはアルバイト先の炉端焼き屋さん。おばあちゃんがアルバイトを始めた当初はシフト上、治次さんと一緒の時が多かったの。だから、お店の店長さんは治次さんだとばかり思いこんでいたわ。なぜって、にこやかで物腰が柔らかくこれぞ客商売の見本という感じの上に、とても堂々としていたのですもの。実際、仕事もとてもできる方だったし本物の店長より威厳があったくらいよ。でも、おばあちゃんと同じように週に1・2回の出勤日数じゃ店長は無理だわよね。出勤日数は少なかったけれど仕事ぶりも誠実で信頼されていたのは確かね。その証拠に、店長がお休みするのは決まって治次さんの出勤日。任せて安心ということかしらね。

     

    そんな治次さんがある時、恋に落ちました。お相手はまだあどけない家出娘。そして、とびっきりの美少女。

    それだけなら何の問題もなかったのだけれど、問題は治次さんに大有りだったのよ。なんといってもその当時治次さんには同棲中の年上の彼女がいたのですもの。

    二人が住んでいたのは新宿から新大久保のホテル街(40数年前)に向かう、その途中にあるアパートの2階の角部屋。夜の仕事をしている人が多く住んでいるアパートだったみたいだけれどけれど、

    「夜遅く鉄の階段をのぼるときはヒールの音に気を使うわ」と年上の彼女・エミさんがよく言っていたものよ。

    エミさんは新宿のキャバレーに勤める夜の蝶。夜の蝶らしからぬ気さくで普通の優しいおばさん、という感じの彼女はおばあちゃんとも顔見知りで大好きな女性だったわ。お昼ご飯をご馳走になったり、夜半にラーメンを食べに連れて行ってくれたり、とても優しい人だったの。ご馳走してくれたから好きだったわけではないわよ。

    おばさんという表現はあまりにも失礼よね。でも、17・8歳から続けている長い夜の仕事のせいで化粧焼け・酒やけした肌が実際の年齢よりも老けてみせていたのだろうと思うのよ。だから、その当時二十歳前後の若かったおばあちゃんから見ると、30歳過ぎのおばさんに見えていたのね。今、お会いしたなら素敵なお姉さまと呼ぶけれどもね・・。

     

    ある秋の夜更け(季節はちょうど今ぐらいかしら)のこと。治次さんが新宿公園から新宿駅の西口付近にいた一人の家出娘を連れてアパートへ戻ったらしいの。

    今、社会問題になっている薬物問題があるでしょ?時代は繰り返すではないけれどおばあちゃんが20前後の時も若者にシンナー吸引が蔓延して、大きな社会問題になっていたの。そんなシンナー中毒のような若者が新宿公園から新宿駅の西口付近にたむろしているのはおばあちゃんも良く知っていわ。その中に見様によっては中学生ぐらいに見える美少女がいて、とてもそのままほっておけなくて二人の住むアパートに連れて帰ったことが事の発端よ。

     

    その日はエミさんのほうが早く帰っていたらしいわ。部屋に戻るなり治次さんが、

    「これ、僕の姉のエミ。今日はここに泊って明日ゆっくり話そう。ゆっくり話を聞くよ。」とエミさんを紹介。

    「姉さん。彼女今日ここに泊めてやってよ。あっ、あと食べるものある?何も食べていないみたいだから何か食べさせてあげてくれるかな」そして、間髪入れずに

    「僕、今日は劇団のヤスのところに泊るつもりだよ。だから大丈夫でしょう?」。

    さすが演劇青年。顔色一つ変えないでよどみなくスラスラとエミさんに向かって言ったそうよ。

     

    正直者どころかこれでは大嘘つきなのにエミさんは黙って受入たのよ。

    『キャバレーのボーイのアルバイトしているときに私が見初めて一緒に住み始めたの。それから今まで治君が私に嘘をついたことは一度もない。とっさに出た嘘でも彼が私という女の存在を家出娘に知られたくないと思ったことが悲しい。きっと治君の気持ちはもう私に戻らない』その時にエミさんがおばあちゃんに言ったことよ。

    実際、エミさんの言葉通りになってしまったのだけれど・・。誰も悪い人はいないのに、悲しいことね。