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《おばあちゃんの恋袋 第百十二話》帰らない日々〜ごめんな〜

  • 2015年12月22日  吉井 綾乃  



    夜を彩るイルミネーションが美しい。
    暖冬の影響で12月だというのに、雪がほとんど降らず開業延期を余儀なくされるスキー場が多いとのこと。今年もホワイトクリスマスは望めそうにない。
    ところで、JK(女子高校生)の間では『クリぼっち』なる言葉があるそう、な。
    『クリぼっち』とはクリスマスに一人ぼっちという意味らしいが…。
    なるほど恋人と一緒のクリスマスが待っている、そんな人ばかりじゃないのは確かだろう。
     
     
    もう、街はサンタさん一色だわねぇ。
    もの心ついた頃、4・5歳かしらね。お菓子の詰まったブーツ型のプレゼントとバタークリームのケーキの思い出からすると、おばあちゃんもほぼ60回目のクリスマスを迎えることになるわけだわねぇ。もしかしたら、お若い方々からすると意外かしらん?でもね、日本の一般家庭でもすでに、1950年代中頃にはクリスマスを祝うスタイルが全国に浸透していたのよ。
     
    さてさて、今日の主人公の富士子さんが哀しい別れを経験したのも、64・5年ほど前のクリスマスイブの直前だったそうよ。
    富士子さんはおばあちゃんよりちょっとだけ、お年を召していらっしゃるけれど、今でもかくしゃくとした素敵な女性。
    90歳に手が届こうか、という富士子さんの日課は毎日の散歩とその後の某フィトネスクラブでの30分のトレーニングよ。年齢だけみてもそのフィトネスクラブでの富士子さんは特別な存在。それに加えて、明るくてお話もお上手だから今では、フィトネスクラブのマスコット的存在でクラブに着けばハイタッチの嵐が待っているという御仁。
    富士子さん触れば、何か御利益があると皆さま思っているのかもしれないわ。
    外見は、本当に小柄で小学生の低学年生ほどしかない可愛らしいおばあちゃんよ。そうねぇ、瀬戸内寂聴さんをお洒落にして一回りほど小柄にした感じかしら。白髪を淡いパープルに染めて、髪の毛に合わせたマフラーやコートのセンスも抜群なのよ。
     
    おばあちゃんの恋バナなど、お若い方々には興味はないかもしれないけれど、誰でも何れは通る道ですしそれに、どんなお年寄りにだって若い時はあったのよ。後学のためにもちょっとお耳を拝借しますわね。
     
    1950年代、今から64・5年前の東京での恋物語は富士子さんの初恋だったそうよ。
    今は『東急目蒲線』という名前はなくなってしまったらしいけれど当時、富士子さんはこの目蒲線沿線のぼろアパート(本人談)に独り暮らし。
    最初はね、中学を卒業すると集団就職で上京した富士子さんの勤めた会社は、彼女と同
    郷の社長さんの計らいで定時制の高校に通うことができ住むところも用意されていたのですって。もともと成績がとても良かった彼女が経済的な理由で高校に進めないことを残念に思った先生が就職先を探してくれたので、定時制の高校に通うのは最初から約束されていたらしいわ。学ぶことが好きだった富士子さんにとっても条件の良い就職先だったのよね。
    仕事と学業で毎日が無我夢中で過ぎて行き、無事高校も卒業できたころ、富士子さんは一人の男性と恋に落ちることになるの。
     
    そして、その恋が富士子さんを武蔵小山のアパートに移る決心をさせるのよね。
    彼女が初めて恋した人は同じ会社に勤める6歳年上の男性。
    故郷にいるころ、小・中学校時代にも淡い初恋のような感情を持ったことはあったけれど、15歳で上京してから本気で男性を好きだと思ったのは彼が初めてだったそうよ。
    でも、富士子さんが彼を好きだと気付いた時には、彼は人の夫。子供こそいなかったけれど彼は既婚者だったのよ。
    それでも毎日、彼の声を聴き、顔を見るたびに愛しさは募り恋心は大きくなって行く一方の富士子さん。どうしても、彼を想う気持ちが抑えきれず若かった彼女はそれ、と承知で彼に気持ちを伝えたのよ。最初こそ、富士子さんの想いに応えることはできないと頑なだった彼も、一途に彼だけを想い続ける彼女の情に徐々にほだされたのでしょうかしらね。いつしか、彼も彼女の気持ちに呼応するように彼女を受け入れ、二人は秘密の関係に…。
     
    人に知られてはいけない秘密の恋。だから、二人には誰にも知られず逢瀬が叶う場所が必要だったのよね。そこで、会社には同郷で遠縁の女の子と一緒に住むと嘘の届けを出して暮らし始めたのが目蒲線の武蔵小山よ。富士子さんが言っていたわ。この彼とのお付き合いしていた時が一番、自分が嘘つきで嘘が上手だったって。それもこれも道ならぬ恋のなせる業よね。
    武蔵小山の商店街は当時からアーケードで、安くて何でも揃う商店街だったそうでとても、暮らし易かったみたいよ。
    引越しをして直ぐ、この商店街の瀬戸物屋さんへ二人で夫婦茶碗を買いに行った時のこと
    「おっ、新婚さんかい。安くしといてやるよ、これはおまけだよ」
    と、言って端数は切捨て可愛いらしい小丼ぶりも一緒に新聞紙に包んでくれた事を懐かしそうに話してくれたわ。
    でも、切なく苦しいけれど、愛する人との時間を共有する幸せなときを過ごせたのはそれから、3年足らずのことだったそうよ。
     
    お付き合いを始めて2年目のクリスマスの前日にビング・クロスビーとダニー・ケイの映画「ホワイトクリスマス」を見に行ったことそして、その次の年、別れの時の夜のことを富士子さんは懐かしそうに話してくれたのよ。
     
    クリスマスイブの前日だったその日は雨交じりの寒い雪が降る夜だったそうよ。今までも、これからもクリスマスを一緒に過ごせないのは百も承知の富士子さん。
    それでも、何故かその時は意地悪がしたくなったのか、虫の知らせがあったのか家に帰る彼を送って出た目蒲線の踏切の前で
    「明日も来てくれる?」
    と、思わず知らず呟いたのですって。踏切の警報器の音が鳴り響き列車の走り抜ける音で彼の声がかき消されたのか、それとも無言だったのかはうつむいていた富士子さんにはわからなかったけれど、たった一言
    「ごめんな」
    そう聞こえると同時に優しく胸に抱きしめられ、瞬時にもう彼が私の部屋を訪れることはないのだと悟ったそうよ。
     
    小柄な彼女は痩せぎすだけど長身の彼の胸に引き寄せられると、すっぽりと親鳥の胸に抱かれた雛鳥のような安らぎを覚えたのだそうだけれど、それが彼のお別れの言葉だとも、理解できたのですって…。同じおばあちゃんだけどそんな、お二人の機微を理解するのはとうてい無理だわ。
     
    二度と帰らない日々の恋物語よね。