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【ねむみの切り捨て御免】“好き“の反対は“嫌い“じゃない

  • 2014年06月12日  安眠亭 ねむみ  



    年を重ねれば重ねるほど、様々なきっかけから多くの人間と関わるようになります。そうして形成された人間関係では仲の良い人だけでなく、嫌いな人もいることでしょう。しかし、「好き」という感情の反対は必ずしも「嫌い」ではないと私は考えます。
     
     
    ・かつて淘汰された人間関係
     
    人間誰しも1人で生きていくことはあまりないかと思います。家族がいて、自分が成長するに従って幼稚園や保育園、小学校、中学校、高校そして大学を経て社会に羽ばたきます。その節目節目で自分と関わる人間が増えたり、あるいは減ったりします。何かがきっかけで仲良くなったり、はたまたその逆になってしまったりで、自分の交友関係は年齢を重ねると共に淘汰されていくものです。
     
    私は非リアを拗らせさらにはメンヘラになってしまう前には、それなりに毎日を誰かとはっちゃけて楽しいリア充な生活を送っていたものです。ある意味、若気の至りだったかもしれません。その時期には私にも恋人というものがいました。彼は今私の中では「クソ元カレ」という進化を遂げていることもあり、おおよそどういう人間であるかというのを察していただきたく思います。
     
    若気の至りを極めてしまっていた私は毎日遊びほうけていました。そして今となっては「本当にクソ男だな」としか思えないその彼に心底惚れぬいていた私は、付き合ってしばらくの間はただただ幸せな毎日を送っていました。「これは歳相応でキャピキャピした若々しい充実した毎日!そんな日々を送れている私は幸せ者!」と実感していたものです。
     
    しかし、その現クソ元カレは女たらしのクソ野郎だったんですね。後に明らかになったのは、私と交際中に浮気した数知れない女の存在と、その男のクズさだけでした。もちろん私はブチ切れましたし、さらにはショックを受け落ち込んだりもしました。様々な感情が入り乱れ、そのクソ野郎のことを心の底から嫌いになりましたし、最終的には「生理的に受け付けないレベル」にまで達しました。するとどうでしょう、本当に腹を立たせ嫌いになって「生理的に無理レベル」になると、一周回って相手のことが心底どうでもよくなるんです。このとき私は実感しました、「好きという感情の反対は嫌いじゃない、無関心だ」と。
     
     
    ・嫌いになるのにもエネルギーがいる
     
    その経験をするまで私は、他人に関しては様々な程度があるものの「好き」あるいは「こいつ嫌い」という2つの感情しか抱きませんでした。しかし、そのクソ元カレが「嫌い」という感情の行く先は「無関心」であると気づかせてくれたんですね。
     
    そもそも、「嫌いだ」と思うのにはすごくエネルギーが必要となります。「嫌いだ」と思うことは、怒りやあるいは憎しみといった負の感情をいともたやすく生み出します。負の感情が自分の中で芽生えてしまうと、感情が揺さぶられてとても疲れます。腹を立てたりするのは無駄なエネルギーをたくさん使いますからね。そのエネルギーを消費してまで腹を立て、相手と衝突して問題が解決されるならば、エネルギーを使った甲斐というものがあります。しかし、「生理的に無理レベル」になると、いちいち腹を立ててエネルギーを消費することすら嫌になってくるように思います。だから「本当に嫌いになった相手には何の興味や感情も沸かなくなる無関心」になるのではないかと私は考えます。
     
     
    ・「嫌だ」と思えるうちはまだ大丈夫
     
    恋愛をしていても、好き同士で交際しているにも関わらず「嫌だ」と思う場面がいくつかあるかと思います。その「嫌だ」と思った原因を解決すべく、時には喧嘩で言い合いをしたり、相手に対してブチ切れたりするでしょう。それは、問題を解決しようと腹を割ってぶつかっている証拠で、「言い合いになってもいいから、問題を解決してそれでこれからも相手と過ごしていきたい」というあらわれじゃないでしょうか?そうでなければ、わざわざ怒るなんていう疲れることをしませんよ。だから、喧嘩をしたり口論をしているうちはまだ大丈夫、と私は確信しています。
     
    問題は「相手に対して何も思わなくなってきたとき」つまり無関心になってしまったときです。「自分のエネルギーを使うまでもないどうでもいい人間」と思われてしまっていると考えても良いでしょう。好きという感情はおろか嫌いという感情も失われてしまい、自分に関心をもってくれなくなる…なんて悲しいのでしょうか。
     
    しかし、そうなるまでには必ず多くの喧嘩や言い合いがあるはずです。それでも解決されなければ、呆れ果ててどうでもよくなりますよ、相手も人間ですから無駄なことはしたくないはずです。少なくとも私は、クソ元カレに対して数えきれないほどキレたあとに「野となれ山となれ」と思いましたからね。
     
     
    ・いつまでもあると思うな喧嘩と相手
     
    喧嘩をしないのが何よりも良いです。喧嘩をしても疲れますし、時には傷付きますから。しかしそのデメリットを冒してまで感情をぶつけるのは、一緒にいたいと思うがゆえの行為だからではないでしょうか。私自身も至らぬ点が多いですから、これから先の結婚後の人生では多くの喧嘩をすることでしょう。もしも私に非があることが原因の喧嘩なら、そこまでして忠告してくれているんだと思い、その非を改善するつもりです。
     
    度重なる喧嘩や感情の衝突によって「もうこいつはダメだ。何を言っても無駄。どうにでもなれ」と思われない、あるいは思わせないような人間でありたいと思います。